「パンジャーブの村落共同体―暴力と再定住の過程」
<2006年度第3回国際ワークショップ 「近代性、暴力、社会変動」>
■報告者 :ギャーネンドラ・パンデー (エモリー大学歴史学部)
■開催場所 :龍谷大学瀬田学舎智光館B103共同研究室
■開催日時 :2007年1月29日(月)11:00-18:00
■議事録番号
ディスカッサント:長崎暢子(龍谷大学国際文化学部教授)

 報告者のパンデー氏は、印パ分離による1947-48年の大量虐殺の舞台となったパンジャーブ地方において、従来注目されてこなかったダリト(「抑圧された者」を意味する呼称)に対する暴力が存在したことを明らかにした。パンデー氏によると、もともとパンジャーブ地方の村落共同体は平等だというロマン化されたイメージがあったが、そのイメージには「村落の奉仕人」としてのダリトに対する抑圧の事実が抜け落ちていた。また分離独立後の虐殺においては、ヒンドゥー教徒・スィク教徒とムスリムだけが被害にあったのではなく、実際にはダリトもさまざまな被害にあっていた。さらに避難民の再定住の過程においても、結果的には地主に有利な土地配分が行われるなど、ダリトに対する抑圧は強まりこそすれ弱まることはなかった。
 ディスカッサントの長崎氏は、第1に再定住の過程においてダリト自身の側からの主体的な交渉の動きがなかったのかどうか、第2にダリトに対する土地付与に研究者の視点が集中しているように思えるが、それ以外の経済活動、例えば皮革産業の経営改善によって貧困からの脱却を図る方向への援助など、その他の諸産業への方向性は考えられなかったのか、また農業でも経営方面への関心や水の供給などに対するダリト側からの対応にはどのようなものがあったのかという質問を行った。パンデー氏は第1の点について、当時は集団としての「ダリト」は未形成だったため「ダリトの声」なるものは存在しなかったと指摘し、史料によると実際のダリトたちは各自が個別にネルーやガーンディーら有力な個人に対してそれぞれ実現可能性のありそうな比較的小さな要求(少額の補償など)をしていたことがわかると述べた。第2の質問に対しては、ダリトからは、むしろ土地ではなく補償金付与などの支援政策が好まれていたと述べ、またパンジャーブ地方においてはそうした支援政策を有効に活用して経済的地位を上昇させるダリトも出現したが、全体としてはやはり土地こそが問題だったと指摘し、またダリトの社会的地位の改善が進展しなかった点が問題だったと述べた。
 会場からは、「ダリト」という呼称を用いたことの意味は何か、当時ダリトに対する暴力を削減するためには果たしてどういう手立てが可能だったのか、印パ分離時の記憶が1980年代になるまで公的な場であまり語られなかったのはなぜかなどの質問が出された。また、沈黙させられてきた声を取り戻すというサバルタン研究の努力は、歴史の複雑さと記憶の非対称性を露呈させるが、そのことによってインド史の理解にどのような貢献ができるのかという点などが議論された。
■資料詳細 
 
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