「近代タイにおける森林政策:チーク林を中心に」
<2008年度4班第3回研究会>
■報告者 :北原淳(龍谷大学経済学部)
■開催場所 :龍谷大学 深草学舎 紫英館2階第2共同研究室
■開催日時 :2008年7月19日(土)15:20-16:40
■議事録番号 :080403
【報告の概要】
 本報告は、タイ国立公文書館の公文書類、森林関係の公史・学位論文等にもとづいて、1880年代から1920−30年代までのタイ森林政策の歴史をたどり、その特徴を明らかにしてみたい。
 まず、近代タイの森林政策は土地政策と密接な関係にあった。単純化すれば、国土を所有権の上で二分化し、森林を国有地、農地を私有地としたのである。1914年以降の森林法は、森林とは地表に森林資源が生育する土地であるとし、その土地は公共地・国有地である、と規定した。他方で、1909年以降の土地法(地券交付法)は農地を主たる対象として、それを私有地と規定した。ただし、現実の所有権の設定、維持のシステムは、欧米の場合と異なって、かなりルースであり、国家、人民双方の管理権・利用権と入り組んでいた。まず、人民は慣習的な利用・保有権意識にもとづいて、森林地に対する国家の所有権、管理権を無視して、農地に転換しても、国家は必ずしも排除せず、場合によって耕作行為にもとづき、私有権をも認めた。他方で、国家もまた、人民の利用実態を無視して、国土の森林面積保存方針にもとづいて、一方的、形式的に森林区画を指定し、人民の慣習的な利用・保有権を侵害したが、多くの人民はこれに抵抗しなかった。
 ただし、1890−1920年代の重要な経済材であったチーク材の場合は、こうした森林の地盤の国有権設定による囲い込みだけでなく、それ以上に、地盤上の当の森林資源をより持続的に維持し、その伐採・利用権を国家、民間企業に配分するシステムの構築に重点が置かれた。その背景は経済的要因よりもむしろ政治的要因にあった。
 19世紀末のチーク材の伐採・利用は、とくに、北タイ旧支配層および欧米列強が関係していた。かつての北タイは、「マンダラ型」支配構造のもとで、半ば自立的な地方国だったが、19世紀後半から徐々にバンコク王朝に統合された。森林伐採の伐採権払下げ(concession)の許可も、当初は森林の「所有者」である北部支配貴族層が握っていたが、バンコク王朝はこれを段階的に中央政府の管轄に転換した。他方、西欧列強、とくにBombay Burma会社を筆頭とする英国系の森林会社が、チーク材の伐採地を、植民地インド、ミャンマーから北タイにも広げ、英国外交官はタイ政府に対して彼らのコンセッションを認めるよう圧力をかけた。こうした危機的な国家統合状況の中で、タイ政府は1896年に公式に森林局を設置し、チーク林を中心とした西欧的な森林管理政策を開始した。そして森林局長は第3代ロイドLloyd局長(1905-1924)まで、ミャンマー森林局で働く森林管理官であった。以後、局長がタイ人となり、欧米との外交関係も自立的になるにつれて、西欧会社へのコンセッション許可のプッシュも弱まった。とくに1938年の森林統制法等を契機に、森林政策の重点は、国内の森林の計画的利用や保全に関心が向かった。ただし、その問題点は冒頭のような所有権と利用権との齟齬にあり、今日にまで尾を引いている。

【議論の概要】
 議論は、19世紀末から20世紀初めにかけてタイが中央集権化していく過程で、北タイの旧支配層がどのように国家の中に包摂されていったのか、またそのときにイギリス系林業会社・業者、保護民や華人系といった非タイの林業事業利害関係者がどのようにかかわったのかという点に集中した。
 大きな流れについての確認をすると、森林は国王の土地だという認識があるにもかかわらず、北部タイは、もともとバンコクの権力が完全に及んでおらず、領主が「所有権」をもっていた地域であった。19世紀末に中央集権化が進むなかで、1896年、森林局は、従来の利害関係者のバランスをとって、設置された。つまり、バンコクの森林局の専門家としてイギリス人を呼び、イギリスの会社に対しては、条件をつけながら許可するなど、イギリスの利益を無視せず、他方、バンコクの意向をも汲んで、北部の領主に対しては、支配権力をそぎながらも、その権威を無視しなかった。このようなバランスとりを指揮したのが、国王の有力ブレーンの内務大臣ダムロン親王だった。ダムロン親王は森林政策についても、いくつかの総括的文書を上奏している。ある文書では、森林事業の3主体(イギリス系会社、華人・タイ人会社・業者、北部旧支配層)と仲介者(仲立人、貸付人、)の存在を指摘する。問題はその3者と仲介人との関係である。
 イギリス(欧州)系の林業会社・業者のコンセッション林は、その一部事業の下請けを保護民や華僑系林業会社が行うことが一般的だった。北部領主が窮乏し、自らの許可林をイギリス系会社に売却した事件も公文書には出てくる。また、同じ人物が、保護民と華僑系林業者という2つの立場を使い分けながら、手配師的な役柄をも行い、イギリス系会社の手下になることもあった。こうした複雑な隙間に食いこんで、裸一貫から成功した華人系もいただろう。しかし、彼ら仲介者の活動は、まだ文書的裏づけに乏しく、その検討は今後の課題であろう、というのが報告者の結びだった。
■資料詳細 
 
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