「中国の貧困削減政策と貧困構造:問題の整理と今後の展開にむけて」
<2008年度4班第3回研究会>
■報告者 :李復屏(龍谷大学社会学部)
■開催場所 :龍谷大学 深草学舎 紫英館2階第2共同研究室
■開催日時 :2008年7月19日(土)16:45-18:25
■議事録番号 :080403
【報告の内容】
 中国が1978年に改革開放政策を取って以降、沿海部をはじめ一部の地域では著しい経済発展を遂げた一方、一部の地域とりわけ西部地域の貧困問題が目立ってきた。中国政府は80年代に入ってから、貧困地域や貧困ラインを規定し、貧困問題に取り掛かった。それにともなって、中国貧困問題に関する研究は、90年代以降に盛んにおこなわれるようになった。
 改革開放後の貧困問題を扱った研究のうち、日本語および中国語の一部の文献を概観すると、次の点が判明した。ひとつは、中国全体を対象としたマクロ研究は、国家の貧困削減政策の紹介が中心となっており、省などの地域に焦点を当てたミクロ研究の多くは、その地域の貧困構造を解明することに焦点が置かれてきた。また、マクロ研究に比べてミクロ研究が少ない。2つ目は、農村部貧困を対象とした研究の地域は、湖南省、四川省、上海郊外、新疆、青海と多岐に渡るのだが、都市部貧困については遼寧省錦州市のみであった。このように、貧困問題の研究は農村部貧困に偏っており、都市部の貧困問題を取り扱った研究は非常に少ない。3つ目は、全体的な傾向として、中国の貧困研究のほとんどが「絶対的な貧困」(生存維持的なレベル)を対象としている。
 中国政府の農村地域における貧困削減政策の変遷は、次の4つの段階に分けられる。第1段階(1978〜85年)では、貧困ラインを設定して支援対象を指定するほか、農業の生産請負責任制や政府の食糧買い付け価格の引き上げなどの制度の改善がなされた。その結果、これまで全農村人口の3分の1を占めていた2.5億人の貧困人口は、1.25億人にまで減少した。第2段階(1986〜93年)では、政府は貧困削減を政治任務と位置付け、明確な達成目標を掲げて取り組んだ。具体的には、専門機構の設置や貧困県の指定、扶貧開発資金の配分、農民の減税などをおこなった。この結果、農村貧困人口は8000万人まで減少した。第3段階(1994〜2000年)では、自然環境の厳しい地域の貧困問題が深刻化し、貧困削減率が鈍化したことを受けて、1994年に中央政府は「国家八・七扶貧攻堅計画」を打ち出したほか、96年に第九次五カ年計画で「星火計画」を推進した。この過程で中央の貧困削減の重心が辺境少数民族地域に移行され、そこでの郷鎮企業の育成や救済資金の増額がおこなわれた結果、貧困人口は3000万人にまで減少した。第4段階(2001〜2010年)では、2001年に中央政府が「中国農村扶貧開発要綱(2001-2010)」を発表し、農民自身が貧困対策プロジェクトを選択できる参加型の貧困削減政策を全国12万の貧困村で導入した。これらの貧困村は、地域によって異なる貧困構造をもつが、湖南省や四川省などの内陸地域では、とりわけ若者の出稼ぎが多く、出稼ぎによって農家経済が支えられている。
 他方、都市部では市場経済転換後に貧困者が増加した。国有企業の改革によって解雇者が増え、国営企業の倒産によって年金や医療などの社会福祉が提供されなくなった。政府は1993年に都市部で最低生活保護制度を始めた。しかし、たとえば錦州市ではセーフティネットの機能を果たさないなど、地域の構造的な問題から年々貧困人口が増加し、2002年には1930万人を記録した。この間、伝統的な「三無」(所得、労度能力、頼るべき未よりのいずれも欠いている者)とは異なる新しい「三無」が登場した。また、農村から都市への出稼ぎ者はそのまま貧困者となったが、この数も不明である。以上のように、農村部も都市部も地域によって自然環境や社会経済的諸条件が異なるので、地域の問題点に即した政策が必要であり、そのために地域の特色に焦点を当てた研究調査が必要であることがうかがわれた。

【議論の内容】
 フロアからの質問は以下のようなものであった。伝統的な「三無」と新しい「三無」との違いはなにか、「三農問題(農民・農村・農業)」とはいつから言われ始めたのか、現在、農村部で起きている暴動と貧困との関連はあるか、などである。また、貧困構造を考えるとき、所得の分配という問題と、貧困を生み出す制度的な環境とを分けて考える必要があるのではないか、中国の市場化のなかで現代の問題がどこに集約的にみえてくるかという視点があるともっとおもしろくなるのではないか、という指摘があった。
■資料詳細 
 
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