「ネイション形成における紛争 ―シンガポールにおける多人種主義の成立―」
<第1班第3回研究会>
■報告者 :山川貴美代 (龍谷大学アフラシア平和開発研究センター、リサーチ・アシスタント)
■開催場所 :龍谷大学瀬田学舎智光館B102共同研究室
■開催日時 :2008年9月19日(金)14:30-18:00
■議事録番号 :080919
【報告の概要】
 報告者の山川貴美代氏は、第二次大戦後のマラヤ、シンガポールのネイション形成における紛争について、英連邦(コモンウェルス)再編期における独立交渉と市民権取得条件を巡る対立から考察し、そこにおける多人種主義(multiracialism)の歴史的経緯を整理した。
 19世紀、マラヤ、シンガポールはイギリス海峡植民地に組み込まれ、アジア系移民の奨励により、マレー系、中国系、インド系のおおよそ3民族から成る複合社会を形成した。20世紀以降、エスニック集団を中心とした脱植民地化の動きが強まる中、現地出生者の増加とそれに伴う二重国籍者の法制度上の取扱いが問題として表面化した。
 第二次大戦後、英連邦への加盟を前提とした独立交渉が進められる中、市民権取得条件について、人種を起源としない、マラヤ、シンガポール共通の市民権がイギリス側より提示された。このような市民権取得条件ならびに憲法上の基本権条項の設定を巡る利害対立は「マレー系」、「非マレー系」というコミュナルな対立を招く一方、1949年以降のインター・エスニックな「連盟」体制を導いた(こうした「連盟」体制の組織化には、一方でイギリスの戦後マラヤ政策における多人種主義の政策立案との深い関わりが示されている)。戦後のマルチエスニック政党の生成、さらには1957年のマラヤ連邦における人種起源に依らない市民権条項の設定、憲法上の基本権の保障などの多人種主義に向けた動きは、マラヤ・シンガポール統合に向けた動きと相まって、1963年にマレーシア連邦の成立として結実する。しかしながら、「土地の子(ブミプトラ)」としてのマレー系に対する優遇措置と、マレーシアの中央集権化とに対峙するシンガポールは、多人種主義を国家の基本原理としてみなすべきであるという主張によって差異化を試みようとする。結果としてこれは、エスニック集団間のコミュナルな対立と重なり合い、1965年のシンガポールの分離独立へと導いた。
 このように、ネイション形成における紛争を、市民権問題とその立法過程における対立と交渉とによって説明し、その中でシンガポールの多人種主義の歴史的経緯とその影響を明らかにした。

【議論の概要】
 討論においては、国際関係論において、アジアを抵抗の論理として捉えていたヨーロッパは、マレー半島の植民地の成立過程をどのように捉えていたのか。英連邦と植民地の独立の狭間にあるイギリスの国益とは何だったのか。植民地に国家を移譲(transfer)するイギリスにとって、バッファーとしての英連邦の枠の中で植民地国の独立を捉えているのか、などアジアが植民地から国家へと変容する過程を、ヨーロッパがどのように捉えていたかについて議論が集中した。これには、対等な国家関係にもとづいた国際関係論と、ヒエラルキックな帝国秩序が併存する形でイギリスが成り立っているといった意見や、植民地が国家へと変容する過程の装置として英連邦をみなしていくなどの意見が出された。
 経済的見地からは、アジアの中でも独立後、植民地主義に対抗して保護貿易に向う流れと、シンガポールや香港のように自由貿易体制に向う流れとに分岐する背景とは何か、また人の移動が国家の成立によって分断される中、多人種主義の方向性に向うのは、経済的な基盤の利害関係がエスニック集団間において明白であったのか等の指摘もなされた。
 さらには、ネイション形成において、アイデンティティといった国民形成の見地から、社会統合(social integration)はどのように達成されたのか、などの質問がなされた。
■資料詳細 
 
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