「ナイジェリア石油産出地域における紛争とその背景:「リソース」をめぐる地域住民の権利要求と反目・対立」
<第4班第4回研究会>
■報告者 :望月克哉
■開催場所 :龍谷大学 深草学舎 紫英館2階第2共同研究室
■開催日時 :2008年10月4日(土)14:30-18:30
■議事録番号 :080404
【報告の概要】
 ナイジェリア南部、ナイジャー(ニジェール)川が形成したデルタ地帯(以下、ナイジャー・デルタ)は石油・ガスの産出地域として知られている。1950年代から商業生産が開始され、今日では石油輸出機構(OPEC)加盟国中、第6位という生産実績をもつに至った。石油開発によって地域住民の生活が多大な影響を被る一方、その見返りとしての補償や、富の配分に与れぬことで不満も蓄積し、とくに1990年代以降、権利要求を目的とする激しい住民運動が展開された。しかし、運動体の乱立・分裂のなかで過激な直接行動にはしるものがあらわれる一方、地域住民の間の亀裂も深まり、グループ間、コミュニティ間の反目・対立が深刻化した。報告者は、こうしたナイジャー・デルタにおける紛争を、石油資源とこれに関わるさまざまな「リソース」をめぐるものと捉え、本報告では、上記の経緯をふまえて、地域のさまざまな「リソース」をめぐる住民の動向、それらを獲得するための取り組みや運動の展開を跡づける。
 従来のナイジャー・デルタの動きを扱った調査研究は、活動の主体に注目した少数民族の問題、活動の性格に注目した権利要求の問題、あるいは活動の展開に注目した紛争の問題として取り扱われてきた。これに対し、報告者は、「リソース」に注目し、それをもとに、石油の「富」を配分する仕組みや、その方法や手段をめぐる長年の運動・闘争を理解していく。
 ナイジェリア国内でも後発地域とみなされるナイジャー・デルタに対しては、独立当初から石油収入配分メカニズムの改革が繰り返されてきた。1961年には鉱区借地料とロイヤルティ収入の50%が産油地域に配分されていたが、その後の改革によって、次第に下がり、1979年には1.5%にまで減少した。その後、地域住民の反発を受け、1993年には3%に引き上げられ、1999年には13%にまで回復したものの、さらなる引き上げを求める住民の運動は今日まで継続している。
 報告者は、これらの「闘争」の担い手となった集団を登場順に3つに大別して整理した。まずは、1990年代前半、Kenule (Ken) Saro-Wiwaなどの活動家が中心となったオゴニ民族生存運動(MOSOP)をはじめとするアクティヴィストのグループであり、90年代半ば以降はいわゆる「青年」組織が台頭し、さらに近年は、武装集団も登場した。90年代に変化した点は、従来の運動・闘争はナイジェリア政府に対抗するものであったが、90年代になると石油企業に対して石油開発に伴う権利侵害の補償を求めるようになり、その手段としても直接行動に訴えるものが出始めたことである。
 以上のような経緯をふまえつつ、運動・闘争の担い手を含めて地域住民が求めてきた「リソース」とは何であったかということを整理すると、それは、当面の補償金や開発資金といったものばかりでなく、自らの社会的な位置づけや利害にも深く関わっていた。たとえば物理的な力/軍事力に関わるもの、行政権限/権力に関わるもの、土地に関わるものなど、これら「リソース」は運動・闘争の目的であり、かつこれを達成するための「手段」ともなっている。このように、「リソース」をめぐって住民の反目・対立が深刻化するなど、ナイジャー・デルタにおける「リソース」の問題は複雑化している。

【議論の概要】
 議論は、運動・闘争の担い手となる組織と、そのリーダーの政治経済的・社会的背景はどうであったかという点と、外部のエージェント(国際NGOやメディア、イスラーム・ネットワーク)がどのように関わったのか、などの点にしぼられた。初期のリーダーは、それぞれの地域の首長や有力者の家系に育った人が多かったが、しだいに「青年」として一括りにされる「持たざる者」に率いられた組織が台頭した。かれらの活動は、しばしばセンセーショナルな事件として取り扱われており、国際報道においてメディアがつくりあげたイメージによって過大評価されている。他方、国際メディアが「青年」組織による動員のためアドヴォカシーに利用されている一面もある。
■資料詳細 
 
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